津山城

別名 鶴山城  付近住所 岡山県津山市山下 現在 鶴山公園
2008/8/25 碑・案内板アリ 日本城郭大系



川中島藩より
森氏
忠政→
長継→
長武→
長成→
(関)衆利
改易

越前松平氏
宣富→
浅五郎→
長熙→
長孝→
康哉→
康乂→
斉孝→
斉民→
慶倫 
 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実践的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
 明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。

〈歴代城主〉
(森家)
森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生れました。慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7、500石の大名から美作一国18万6,500石の大名に抜擢されました。この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。森氏は4代95年にわたって美作国を治めましたが、4代藩主長成に嗣子がなく津山森藩は改易となりました。その後、森家は2代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤穂に移りました。
(松平家)
森家にかわり10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曽孫で越前家と呼ばれ、徳川一門に重きをなしていました。そして明治4年(1871)に廃藩となるまで、9代174年にわたって続きました。

森忠政 1570-1634
 幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生れる。京都本能寺に変で、織田信長を守護し、非運の最期を遂げた森蘭丸の弟。天正12年(1584)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。同8年美作津山に入封。翌9年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基を4なした。寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65才。なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。

備中櫓
概要
 備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な史料である「森家先代実録」には「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」とある。森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
 備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。さらに指図よると内部には御座之間や茶室を備え建具には「唐紙」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。
 このような特異な構造をもつ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、復元整備の対象となったものである。

    

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